桜乃争奪戦・中編
「頑張れ桃城〜〜〜っ!!」
「先輩、かるーくいなしちゃって下さいよー!」
青学と立海の試合が行われているコートでは予想以上の接戦が繰り広げられていた。
「う〜ん・・・流石に天才的な俺でも、逆の手で綱渡りは難しいな〜・・・けど別にやんなくても勝てそうだけどね」
「へぇ・・・の割にはこれまで全く同点っすけど?」
丸井・ジャッカルペアと桃城・海堂ペアのダブルスの試合は今のところ15−15の同点。
逆の手の戸惑いがあるのか、決定打に欠ける分、時間が掛かっている。
「ん〜〜、出来ればここでポイント先取しときたいなぁ・・・次にやる仁王って、ほぼ両手利きと同じだからどうしても有利になるんだよにゃあ」
ぶーっと菊丸が唇を尖らせた時、自分のいる場所から然程離れていない所でエンジン音が聞こえる。
それは別に何でもないことなのだが、彼がそれにつられて目を動かした瞬間、がばっと菊丸の身体がその音のした方・・・駐車場へと向いた。
その時丁度、青学側のベンチで顧問の竜崎が、孫がなかなか来ない事に愚痴を漏らす。
「それにしてもあの子達は遅いねぇ・・・何をしているんだい」
「竜崎っ!?」
叫ぶ菊丸の声が、祖母だけではなくコートの全員に聞こえた。
試合をしている四人はまだそちらに集中していたが、他の観戦に集中している者達は視線を送り、がしゃんっ!とネットに張り付いた菊丸の行動の異常性に早くも気付いた。
「先生っ! あれ竜崎だっ!! どっかに連れてかれちゃう!!」
「え・・・」
ざわ・・・と辺りがざわめき、ここでようやく試合中の男達も、何か大きな事が起こったのだと察する。
周囲よりいち早く外の異変に気付いた菊丸は、エンジン音をたて、急カーブを描きながら飛び出していく黒の車と、その後部座席に乗せられた、ぐったりとした桜乃を確実に目で捉えていた。
元々視力が極めて良かった彼は、最早一片の疑いもなくその事実を顧問に伝えたのだ。
「何だって!? あの子は今、ボールを取りに・・・」
駐車場にいた筈だよ、と続けた竜崎の耳に、また別の大声が聞こえてきた。
『おおーい!! 女の子が倒れてるぞっ!?』
『救急車呼べ! 何か様子がおかしい!』
コートの従業員なのだろうが、声の震えに心の動揺が如実に表れている。
「!!」
「精市、行くぞ」
がたっと立ち上がった幸村に真田が声を掛け、他のメンバーと共に青学のベンチの方へと走っていった。
「手塚! 竜崎先生とメンバーと一緒に、倒れている子の確認に向かって。それと、ここの従業員の人と一緒に竜崎さんを探そう、俺達も協力するから。念の為、警察にも連絡した方がいい」
「幸村・・・分かった」
手塚も流石に少しは動揺した様子だったが、すぐに元の冷静さを取り戻し、顧問の竜崎を促して声のした方へと急いで移動する。
手塚を見送った後、幸村は自分の仲間達にてきぱきと指示を出した。
「倒れている女の子の所には柳生と仁王も行ってほしい。柳生、緊急の処置がいる場合には手伝ってあげて。仁王はその手伝いを」
「おう」
「分かりました!」
「蓮二、多分君の古い友人も分かっていると思うけど、菊丸君からさっきの車の特徴を聞いておいて。彼は視力がいいから、良い情報が期待できるかもしれない」
「無論だ」
「他の皆は俺と一緒にこの施設を見て回ろう。彼女がいてくれたらいいけど・・・正直、期待は薄い」
「だが、何もしないより余程マシだ!」
菊丸の視力を知っているが故の幸村の言葉に、真田が叱咤する様に答えた。
「うん・・・そうだね」
最早、試合どころではなくなった。
実際、何が生じているのかは誰もが理解していないところなのだが、それでもやらなければいけないことぐらいは、考えたら見えてくる。
彼らは分散して、建物の中と外を走り回り、おさげの少女を探し回った。
「おさげちゃ―――――――んっ!! 返事しろ――――――――いっ!!」
「竜崎―――――――――っ!!」
然程大きくない施設の中、走り回る間に青学のメンバーとも顔を合わせるが、嬉しい反応は一つとしてなかった。
「いたか!?」
「いや、いねぇ・・・! 向こうは見たか?」
「今、丸井が行っている!」
「くそ〜〜〜〜っ、いねえよーいっ!!」
苛立ちを隠しもしない彼らの所に、別行動をとっていた大石が駆けて来た。
「みんな、来てくれ! やっぱり竜崎さんは、誰かにさらわれてしまったらしい」
「・・・!」
半分・・・いやそれ以上予想していた事なのに、やはり言葉で断言されると、心に衝撃が走る。
「・・・何か分かったんスか」
海堂の睨むような視線の向こうで、青学の副部長は沈んだ面持ちで事実を告げた。
「倒れていたのは小坂田さんだった・・・意識を取り戻して、竜崎さんが連れていかれた時の事を話してくれたらしい」
「・・・何で、さらわれるなんて・・・」
「・・・それについても、行けば分かる」
「・・・え?」
朋香の側には、救急車の到着を待つ柳生たちと、手塚たちが集まっていた。
既に意識を取り戻していた朋香ではあったが、やはりショックは強かった様子で、まだ全身が小刻みに震え、言葉を出すのも苦痛である状態だった。
「ごめんなさい・・・私が・・・こんな道使おうって言ったから・・・」
「落ち着いて・・・大丈夫、貴女は何も悪くありませんよ」
「殴られた時の事・・・何か、話せるか?」
医師の息子である柳生の知識を期待して幸村は彼女の所へ彼を送り込んだのだが、幸いと言おうか大きな怪我はなく、認められたのは頭部の打撲のみだった。
おそらく誰かに殴られたことにより昏倒してしまったのだろうが、彼女はその後も身体こそ動かせなかったものの、僅かに意識は保っていたらしい。
「分からないけど・・・桜乃が、連れていかれたのは・・・聞こえてた。何か・・・第三・・区画、倉庫、とか・・・言って・・・」
「・・・・・・!」
語る娘の手元に視線を向けた仁王が、形の良い眉をひそめてそちらへと手を伸ばし、彼女の手の中に握られていた物を取り上げる。
「仁王君・・・?」
「これじゃな・・・いかにもヤバそうなブツじゃ」
朋香が握っていたビニル袋の中に入れられていたのは、白くて丸い錠剤だったが、何となく包装の形から正規の薬品とは思えない。
きっと、朋香がぶつかった相手の荷物だろう・・・拾おうとしたところで殴られ、気を失ったと思えば辻褄も合う。
そして朋香が袋を握り締めていた事には、相手が気付かなかった・・・皮肉な幸運だ。
「これは・・・」
「実物は見たことないが、おそらく麻薬とかの類じゃろ・・・モチロン、物によっては持ってるだけでパクられる。善良な一般市民とは縁のないシロモノじゃ」
「では竜崎は・・・」
ショックで声もない祖母の代わりに手塚が声を出すと、仁王が立ち上がりながら頷いた。
「この子以上に妙なヤツらの秘密を知ったんじゃろうの・・・早うせんと、あの子の身が危ない」
そこに『救急車が来ました!』という声と賑やかな物音が聞こえてきて、話は強制的に打ち切られてしまったが、最後に仁王は手にした袋を竜崎に預け、柳生が彼らに忠告する。
「それを警察に。先生は彼女と一緒に病院へ行って下さい。青学の皆さんも、同伴した方が宜しいでしょう」
「しかし・・・竜崎を・・・」
手塚の表情はいつにも増して厳しく、声には苦味が滲んでいるが、仁王はその相手の心中を察しながらも冷静な言葉を紡いだ。
「やから、これからは警察の仕事よ。それにお前さん達にも最低限の聴取はある筈じゃ。顔、揃えとかんと厄介じゃぞ」
「む・・・」
「じゃあの。柳生、後は専門に任せえ。行くぞ」
「はい」
ストレッチャーを運んでいく救急隊員と擦れ違い、そのまま仁王達は、今度は菊丸と乾、柳の元へ向かった。
彼らは、菊丸が問題の一瞬を見たあのコートの脇に集まっており、菊丸が何かを身振り手振りで話している内容を、乾と柳が手早くメモしていた。
「柳!」
「仁王・・・? 何か新たな情報があったか?」
「おう、とびっきりの凶報じゃよ。少なくとも竜崎は、もうここにはおらん」
「やっぱり!!」
菊丸が声を上げるのを待たず、ぐい、と仁王が柳の袖を強く引いた。
「柳、乾、ここから一番近い距離にある第三区画倉庫ってのは、何処を指すんじゃ」
「第三区画倉庫・・・?」
「そんな名前の倉庫は、おそらく探せば幾らでもあるぞ」
「じゃから! ここから一番近い・・・それか、一番認知されとる場所よ。竜崎の命がかかっとるんじゃ、何とか出来んのか」
「・・・俺のPCがあるから持ってこよう。ネットに繋げれば、ある程度の情報は収集可能だ」
ざ・・・とその場の全員の背筋に悪寒とも緊張ともつかない何かが走り、乾が詳細を聞く前にそう言った。
この場合、話を聞く前に行動を起こす方が重要だと判断した上での行動であり、それに応じる形で柳も申し出た。
「この近辺の地図なら、ここに置いてあるかもしれん。聞いてみよう」
「よし、行くぜよ」
乾と柳が先行し、他の部員がまた揃って建物の中へと移動する間に、柳生が仁王に尋ねる。
「・・・竜崎さんは・・・やはり危険なのでしょうか」
「あのにぎやか娘が残されたのに、竜崎だけが連れていかれとるっちゅうことは、彼女を見逃せん理由が向こうにあったってことじゃ・・・そんな秘密を抱えたあの子を、今更向こうが無条件で無事に帰すとは思えん」
「・・・・・・」
「車の中でのトラブルは、あったとしてももうどうにも出来ん・・・後は、その倉庫ってトコロで何が起こるかじゃよ」
「何か・・・まさか・・・!」
「言わん方がええよ、柳生」
最悪の事態を言葉に乗せることを禁じて仁王達が建物の玄関口へと到着すると、そこでは丁度ストレッチャーで運び出される朋香と、青学のメンバー、そして幸村達がいた。
「!・・・仁王」
「幸村・・・そっちは?」
朋香が運ばれてゆく様子を不安げに見守っていた立海の仲間達が、仁王達に気付いてそちらへと足を向けた。
「取り敢えず病院へ運んで精密検査。すぐに警察も向かうから、被害者の関係者はそこで待機しているようにって・・・そっちはどうだい?」
仁王達が自分達の推理を含めた経過を説明すると、いつもは温和な表情を称えている幸村が、言葉を掛けるのも憚られる程に冷たい瞳で呟いた。
「・・・そう・・・予想以上に、悪い状況なんだね」
「何という事だ・・・!」
あの少女には一片の非もないというのに!と怒る真田は、拳すら震わせていた。
「とにかくこっちの情報が少ない。けど、無いワケじゃないからな・・・あの三人に期待しよう」
ジャッカルが前向きな台詞を言いながら視線を向けたのは、受付で地図を広げ、PCを覗き込んでいる両陣営のデータマンと、唯一の目撃者である菊丸だ。
菊丸の意見を聞きながら、乾がPCのボードを叩き、柳は地図をじっと凝視しながら頷いたり考え込んだりしている。
「幸村」
そこに、青学の手塚が固い表情で歩いてきた。
「すまんな・・・お前達まで巻き込んで」
「そんな事はいいんだ・・・俺達だって、あの子の事が心配で勝手にやってるだけだよ」
そう言う幸村にもう一度、すまんと謝ると、手塚はちらりと玄関口の救急車を見遣って言った。
車に乗り込むのは、顧問である竜崎と、副部長の大石だ。
「先生達と青学の部員は取り敢えず病院へ向かう。俺達の聴取はそこで行われるのだろう・・・正直話せることなど何もないのにな。ただ、少し嫌な話を聞いた」
「ん・・・?」
「以前ここにバイトで勤めていた男が、時々あの通路の脇に自分の荷物を置いたり、不審な動きが多かったそうだ。注意されたのを切っ掛けに最近辞めたそうなのだが・・・どうにも怪しいところが多すぎる」
「・・・間取りや業務内容を知っていたら、死角を利用するのは容易いね」
「隠れて合鍵でも作っていたら完璧じゃの」
お約束過ぎる・・・と仁王は心で笑ったが、流石に不謹慎な発言は控えて、代わりに、くい、と受付で慌しく立ち回っている従業員を親指で示した。
「まぁ、どこまで追跡出来るか分からんが、バイトの履歴書を出して貰うことじゃな。偽名とかはともかく、顔写真は少しはあてになりそうじゃ」
「ああ・・・お前達は基本的には青学の人間ではない。ここで会ったのも全くの偶然だ。無駄に拘束されることは無いと思うが、もしこれからも何か情報があれば教えてほしい・・・協力を頼む」
「分かっているよ、頼まれなくたって協力するさ」
「手塚」
そこに大まかな情報を手に入れたのか、乾たちも合流する。
「菊丸が、車の形状とナンバーを記憶していた。警察には電話で既に知らせておいたが、盗難車である可能性も高いな・・・一応、これがダウンロードした車の外観とナンバーだ。中に乗っていた人間の顔は分からなかったが、二人はいたという事だ」
「蓮二の方はどうだい?」
車の情報を手にした幸村の問いに、柳は地図を開いて入手した情報を開示した。
「貞治の協力も得て調べたところ、同名称で記録されている倉庫はこの近辺百キロの円周内で三箇所あった。一つは某運送会社の倉庫、一つは製菓工場の倉庫、最後に造船工場で使用されていた倉庫・・・しかし、前の二箇所は現在ほぼ二十四時間体制で稼働中であり、わざわざ人目につく為に行くようなものだ」
「・・・最後の造船工場は?」
真田の質問に、柳は地図でその箇所をぴ、と指し示す。
「不況の煽りを受けて数年前に倒産、閉鎖・・・倉庫は今現在放置され、廃墟に近いそうだ」
「・・・そこじゃねぇのかい」
もしこの範囲内でそいつらが行くとするなら・・・と丸井が険しい目つきで呟き、誰もそれに異論は唱えない。
「無論、それも既に警察には伝えてある。あくまでも参考として・・・だがな」
「今は道路を走る車両の追跡調査の機能も向上しているから、確認を取るのは容易いだろう」
「・・・・・・」
柳達が説明をしている間、無言を守っていた仁王がふい・・・と視線を動かし、手塚に呼びかけた。
「なぁ、呼ばれとるよ」
「・・・ああ、その様だな」
「では、俺も行かなければ・・・」
玄関に立っている青学のメンバー達が手塚に向けて手招きをしている姿が見え、手塚は足早にその場を立ち去り、乾も手にしていたPCを閉じて踵を返した。
「・・・・・・ちょっとええかの、参謀」
「ん?」
青学のメンバーが病院に向かうべく最寄の駅へ向かう姿を見つめた後、仁王が柳に視線を向けた・・・やけにおどけた瞳で。
「・・・今さっき、お前さんがちょっとだけ示した倉庫・・・なーんかやけにここから近い様に見えたんじゃがのう・・・十キロもないじゃろ。気のせいか?」
「・・・・・・」
皆の視線が柳に集まったところで、仁王の質問は更に続いた。
「警察って・・・今から動いたとして、お前さんの見立てではその倉庫までどのぐらいかかるんじゃ? この時間帯の辺りの道路って、結構混んどるよなぁ」
「・・・それを知ってどうするつもりだ?」
「さぁ・・・どうしようかの・・・取り敢えずは、そこの部長サン達が考えている事をやってみようか」
びしっと指差した仁王の先で、幸村は冷えた目でその指摘を身じろぎもせずに受け、薄く笑った。
「・・・一緒に行こう、なんて言うつもりはないよ」
「お構いなく、近道教えてもらったら、勝手に行くけ」
「お前達は残れ! 安全は保証出来んのだぞ!?」
真田が仁王の企みを止めようとしたが、相手は両耳をしっかり手で塞いで『聞こえなーい』とアピールし、それどころか、切原や丸井達まで挙手して騒ぎ出した。
もう間違いようがない。
部長達は行くつもりなのだ、その第三区画倉庫に!
誰にも言わず、自分達にも内密に、独断で行こうとしていたのだ。
警察を待つだけでは間に合わないかもしれないから・・・
「行く、行く! 俺もいくよぃ! 黙ってのんびり待ってられっか!!」
「竜崎がいるかもしれないんだろ!? 時間がないなら、それこそ急いでいかねぇと!!」
「幸村、お前達も行くつもりなんだろう? 今更、下手な気遣いはやめとけよ」
「私も行きます。柳君、道を教えて下さい」
「・・・・・・」
眉をひそめてこちらを見る参謀に、部長は苦笑いを浮かべて首を横に振った。
「こうなったら無理だね、蓮二、弦一郎。これ以上ダメ出ししたら、みんな床に寝転がって駄々こねだすよ」
「む・・・」
真田はまだ納得出来かねる表情をしていたが、目の前の部員達の決死の表情を見てしまった以上、何も言えなくなる・・・事実、自分も同じ事を考えているのだから。
警察は動いてくれるだろうが、それは実際にいつからなのかは分からない。
向こうですぐに動いてくれたらいいが、そうなってくれるという確証は無いのだ。
そうしている間に、もしあの少女の命を脅かす事態が生じてしまったら、誰がそれを止めるというのか。
正直、自分達の様な素人が手を出す事ではないことぐらい理解している。
しかし、そこに誰もいなければ?・・・彼女の危機を止める誰かがいなければ、確実に最悪の事態は訪れてしまうのだ。
素人だろうが玄人だろうが、関係ない。
危険が伴うことも理解している、だが見捨ててはおけない。
「仕方がないな・・・しかし、目的地で何が起こっているとしても、警察が来た時点で俺達は引く。いいな、素人が出しゃばるのは『助力』ではなく、『邪魔』だ」
微かなため息をついて柳は再度地図を開くと、今自分達がいる地点を示し、それからすっと目的地となる倉庫に移動させた。
「仁王の言う通りだ・・・今日は日曜でこの辺りの主要道路が部分的に閉鎖されている事に加え、交通情報から、事故で渋滞が続いているという報告があった。何も知らずに車道を走ると、この時間帯ではかなりの時間を要するが、歩道を上手く選ぶとごく短時間で倉庫に着くことが可能となる・・・但し、奴らに間に合うには、かなりの速度で走ることが必要条件だがな」
「いーんじゃねーの、トレーニングだと思えば・・・でさ、真田副部長」
何かをねだるように目を向けてくる二年生に、真田は分かった分かったといった表情で頷いた。
「・・・こんな事態だ、特例として、リストバンドを外すことを許可する」
「やりぃ!」
にひゃっと笑って、早速切原が両腕のバンドを外して床に落とし、久し振りの自分だけの重みを感じて飛び跳ねる。
「遊びに行く訳ではないぞ!?」
「分かってますって」
注意する真田の脇で、他の部員達も次々とバンドを外し、自由の身になってゆく。
いつもは人の指示では決して外そうとしない仁王も、この時ばかりは己の枷を外す事に同意した。
「仁王君も、外すのですね」
「おう、俺の意志じゃ。これを理由に間に合わんかったなんて、言えんじゃろ」
そして全員が、幸村の後に続いて外に出る。
手に持つのはテニスバッグのみ・・・それだけだったが、それこそが自分達の切り札だ。
天気は上々、気候も穏やか・・・こんな事件が起きなければ、それは良いトレーニングになっただろうに・・・
「みんな、十キロを走り終わった時点で半分はスタミナを残しておくように・・・案内は蓮二に任せるよ」
「分かった、少々難がある道も選ぶが時間短縮の為だ、故障の出ない様に注意しろ」
「・・・では頼むぞ、蓮二」
ああ、と頷いて、蓮二がく、と身体を前に傾けて走り出した。
幸村、真田達も続く。
みんなが走り出す、何も言わず、いつもの練習の時と同じ様に。
いつもの練習より、明らかに速く。
手に持つ荷物すら幻覚であるように、身のこなしの軽い男達が、大きな道も細い抜け道も、縫う様に走り続ける。
「次を右だ」
指示する声すら散歩の時の話し声の様に軽やかで、苦痛などまるで存在しないようだった。
短距離走でもやっているのかと疑わせる程の速さで走っていく彼らの鼻腔に、やがて潮の香りが感じられてくる。
海が、近くなった。
それは造船工場の場所が、近くなったということ。
そして、彼らは遂に目前にその姿を捉えた。
幾つも並んでいる同じ形の倉庫・・・の一つ。
首が痛くなる程に大きな、正面の入り口上部に3と大きく記されている以外は何の変哲も無い倉庫だ。
しかし無人となってから過ぎ去った時間は赤黒い錆となり、壁の至る所に付着していた。
金属で作られているとは言え、今崩れたとしても不思議ではない雰囲気がある。
こちらから見える入り口はトラックが入れる程に大きなシャッターがあり、半分程降ろされたところで止まっていた。
「あそこから入れるかな・・・?」
「待て、その前に本当にこの場所なのかを確認しなければ」
真田の言葉の通りで、ここが正解だと言う証拠はないのだ。
みんなは取り敢えず、目立たない様に近くの他の倉庫の物陰に隠れつつ、ゆっくりと問題の倉庫へと近づいていった。
もし外れだったら、全ての努力はただの徒労に終わってしまう。
見たところ、まだ警察の類の車両は来ていないようだが・・・
「・・・・ん?」
「あ・・・」
辺りを見回していた丸井とジャッカルが、同じ一点を見て声を上げた。
「おい、あれって・・・」
指差した方角に、黒い箱型の車が置いてあった。
倉庫のすぐ近くに置いてあるが、新品同様の車がこんな廃墟に置かれているのが何ともミスマッチだ。
あの乾から受け取った不審車のイラストと比べた幸村が、こくんと頷く。
「あれだ・・・ナンバーも一致している・・・どうやらここで間違いないみたいだね」
「人はもう乗っとらんの・・・ちょっと見てくる」
仁王が先に走って行くと、ボンネットに触れながら車内を覗き、車の後方に回り込み、屈んで見えなくなり、しばらくしてまた走って戻って来た。
「どうだったぃ?」
「ボンネットは熱い、来てそう時間は経っとらんよ・・・中はもぬけの空じゃ、誰もおらん」
「くそー・・・じゃあおさげちゃんは中に・・・?」
「そんなに経ってないから、無事だと信じよう・・・さて、これからどうするか、だけど・・・」
幸村達は円陣を作り、頭を突き合わせながら作戦を練る。
「俺達の目的は、あくまで竜崎さんを取り戻すことだから、下手に向こうの奴らと接触する事は避けたい・・・一応、向こうも武器ぐらい持ってるだろうし」
「銃なんかもってたら、はっきり言ってヤバイっすよね」
「まぁ、一発ぐらいなら腹を撃たれても、そう死ぬことはないだろうが」
「俺は蚊に刺されるのもゴメンじゃよ、真田」
ごにょごにょごにょ・・・と話し込んでいても、一向に事態は進展しない。
「先ずは竜崎さんが何処にいるのかを確認しないとね・・・後は、向こうの人数を知りたい」
最低限の要求を幸村が述べていた時、問題の倉庫に近づく一人の人影があった。
白い帽子を被り、ラケットを抱えた小柄な少年・・・越前リョーマだ。
「しかし、中の間取りが分からないと、下手な侵入は命取りになるな・・・」
立海の面々が彼に気付かず更に審議を重ねている向こうで、越前はあの車に気付いて、問題の車両だと確認して頷いていた。
「じゃあ、誰かが囮になって、中の奴をおびき寄せるってどうッスかね?」
切原が発案している間に、越前はすたすたすたとあの半分開けられたシャッターに近づいて行き、そこでようやく立海のメンバーが振り向いて彼の姿を認めた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
全員が言葉を失って、次の瞬間、その場がパニック状態に陥る。
『何してんだアイツは―――――――――っ!!!!』
聞こえない叫びを上げながら、彼らの内ジャッカルと丸井が越前に突進し、背後から羽交い絞めにしてずるずるとこちらへと引きずって何とか事なきを得る。
「・・・・っ、何でアンタ達がいるの?」
「こっちの台詞だアホンダラーッ!! こーゆー時ぐらい大人しくしてらんねーのかテメーはっ!!」
(そう言うアンタはココで何してるんだよ・・・)
無遠慮に質問してくる越前に対し切原が涙目になりながら怒号をかましている向こうで、幸村は、はーっと大きなため息をついてこめかみを押さえた。
「・・・その質問、俺達が先にしていいかな・・・病院はどうしたの? あの子、怪我したんだよね」
「ああ、命に別状ないから、いても意味ない」
「・・・警察の聴取は」
「何も言うことないから時間の無駄だし」
「・・・みんなには言わないで来たね?・・・乾から聞いたんだ?」
「うん、よく分かったね」
「・・・・・・手塚も大変だな・・・こんな一年を下に持って」
「そうみたいだね」
「・・・・・・・・・」
普通の人間なら聞いているだけでむかつく会話である。
実際、周囲の立海メンバーはそれぞれが顔を引きつらせたり組んでいた腕を震わせたりと、その感情を持て余している様子だったが、越前は一向に意に介していない。
「・・・アンタ達はなんでここにいるの? 関係ないでしょ」
さらっと言い放つルーキーに対して、幸村は軽く首を横に振って否定した。
「そうでもないよ・・・竜崎さんは俺達の知り合いでもあるからね。放っておけない」
「・・・・・・ふーん」
「・・・そうか、君もそうだったね。彼女が心配で来たの?」
「別に・・・こっちの方が面白そうだったから」
「越前・・・!」
不謹慎な発言を咎めた真田が彼に向かって伸ばした手を、幸村がす、と静かに押し留めた。
「精市・・・!?」
「いいよ、今はそんな事で論議している暇は無い。でも、こっちの都合もあるから、あんまり勝手な真似をされても困るし・・・少し足並み揃えてくれる?」
「・・・どうするの?」
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